IK2_0767_02

塚田信吾(つかだしんご)
NTT物性科学基礎研究所 機能物質科学研究部
上席特別研究員

2010年より日本電信電話株式会社リサーチスペシャリスト、2013年同社に入社。医学博士。整形外科医から研究者に転じ、「hitoe」の開発に携わる。脳神経細胞の情報伝達に関する解明・制御の研究を専門とする。最近では、導電性高分子・繊維複合素材を核にしたウェアラブル型・埋め込み型生体電極「hitoe」の研究開発も担当。生体信号を長期計測し、疾病の予防や早期発見へ活用することをめざしている。
(所属部署・役職は取材当時)

IK2_0814_02

柏野牧夫(かしのまきお)
NTTコミュニケーション科学基礎研究所 人間情報研究部
部長・上席特別研究員

1989年日本電信電話株式会社に入社。専門は心理物理学・認知神経科学。錯覚を切り口として、聴覚をはじめとする人間の知覚情報処理メカニズムの解明に従事。無自覚のうちに高度な認知を実現する脳の働きに興味がある。最近では、身体の表層に現れる生体反応を用いた心理状態の推定や、脳科学に基づくスポーツ上達支援などにも研究対象を広げている。東京工業大学工学院情報通信系特任教授。
(所属部署・役職は取材当時)

― hitoeの技術そのものは、もともとNTT内で蓄積されていたのでしょうか。

塚田 素材としてはそうです。脳に埋め込む電極とか、神経細胞の活動を測る素材として、導電性高分子という新素材を使っていたのですが、その基礎技術を繊維や電極の形で大型化して布にしたのがhitoeです。着用するだけですから、日常生活やスポーツの練習、試合の中で、さまざまなデータを長時間計測することができるわけです。

― それにしても通信を本業とする企業グループで、衣料素材を開発したり、
スポーツ脳科学の研究が行われたりしているのは、意外でした。

柏野 企業というものは主軸のビジネスだけでなく、新規事業の芽を絶えず探していかなければなりません。とはいえ、われわれのラボではすぐ何かの役に立ちますというものばかりではなく、むしろ非常に基礎的な、何十年かたったら世の中に出ていくかもしれない、というスケールで研究しているものが多いんですよ。私の場合、人間の感覚と運動の関係、つまり本人も無意識なうちに脳の中で起きていることが、いかに体の動きに現れるかの基礎研究をずっとやってきました。昨今、ビジネス的な側面でスポーツ分野が急速に開拓され、すでに欧米の先進的なプロスポーツの世界では、さまざまな要素がデータ化され、解析されています。ですが試合での選手のプレーや打球・投球の傾向など、外から計れるもののデータ化がほとんどで、人間の中身にまでは、まださほど踏み込んでいない。世界的に見てもまだ手が付けられていないその分野に、広い意味での通信、つまりIoTやクラウドなどをからめることができれば、我々の強味を生かした競争力のあるビジネスモデルが構築できるのではないかと考えています。

― 現在市販中のhitoe製ウェアで計測できるデータは、どういったものでしょうか。

塚田 心拍数、加速度ですね。これらのデータを、ウェアに取り付けたトランスミッター経由でスマホに転送します。主にラン、バイク、トレッキングなどでの運動強度把握を目的としています。現在、開発パートナーとして、自転車ロードレースの日本トップクラスの選手の方々に、個人練習やレースの際に特注のhitoe製ウェアを着用していただき、データ収集と解析を行っています。

transmit01①hitoeウェアが計測するデータをスマホなどに飛ばすトランスミッター。

トランスミッター②hitoe活用のウェア「ゴールドウイン C3fit IN-pulse」は市販されている。

― その他の競技にも、hitoe製ウェアの提供を行っていますか。

塚田 筋肉を動かす制御信号である、筋電位も測定できるタイプのhitoeを現在開発中です。それを、米IndyCarレースの強豪、Chip Gannasi RacingチームのTony Kanaan選手に着用してもらっていますね。レース中、hitoeで測定したドライバーのデータをまずマシン内のコンピュータに送り、そこからピットまで、マシン自体の挙動情報と一緒に電波で飛ばす仕組みです。コーナリングで激しいGがかかった時など、それに対抗するためにかなり強い筋電位が出ているのがわかります。筋電位のデータが取れるhitoeが実用化されれば、力みや筋肉の疲労、回復の様子が可視化され、体調管理に役立てたり、全身の筋肉の連鎖的な運動の様子を解析することもできます。

supporter01

supporter02

まだ試作段階だが、筋肉の動きを計測するhitoeも近い将来、登場する。

― 全身の筋肉の連鎖的な運動が解析できると、
何に役立てることができるのでしょう?

塚田 さまざまなアスリートのさまざまな計測データがどんどん蓄積、解析されると、一個人の好不調や競技中の心身の状態、その選手が競技者としてどのようなタイプに分類されるのかといったことがわかるようになります。また、目的の動きに必要のない余分な力みが入った筋肉の緊張を解くことで、バランスのいい運動ができるようになりますし、持久力も向上します。

柏野 さらに研究が進めば、これまでコツというあいまいな言葉でしかなかった競技のエッセンスが抽出されて、アスリートのパフォーマンス向上のための客観的、科学的なサポートまでできるはずです。たとえば、速い球を投げる野球のピッチャーが、体をどのように連動させているのかを調べたいとしましょう。連続写真や動画といった「形」の情報だけでは、どこの筋肉にどのタイミングでどのぐらい力が入っているかは捉えきれません。しかし筋電位のデータを取ると、どの筋肉とどの筋肉が連動しているのか解析できますから、下半身で作ったエネルギーが体幹、そして腕へとスムースに伝わっているといったことを捉えることができます。ただし、筋電位の計測は従来大変手間のかかるものでした。身体に電極を装着するだけで1時間以上かかることもざらです。hitoeですとそれが劇的に簡単になりますから、日常の練習の中で、全身の筋肉の連動の様子を可視化したり、あるいは直感的に把握しやすい音に変換したりして、複雑な身体運動のエッセンスをより的確な形で選手にフィードバックすることができます。選手のパフォーマンスアップの手助けを、負担なく、よりスピーディに行えるわけです。

― そこまで踏み込んだ形のサポートを見据えられるのは、
NTTの研究所でこれまで積み上げられ、そしてこれからも
積み上げられていくであろう知見があってのことですね。

柏野 そうですね。その土台こそが我々のアドバンテージ。測定したデータからどれだけ深い情報を読み込めるかが、勝負だと思いますので。

塚田 ただ、hitoeの恩恵を享受できるのは、トップアスリートだけではありません。現行モデルでも一般の方々のスポーツ、例えば毎日のランニングなどでも活用していただけます。さらに筋電位なども計測できるモデルが登場すれば、エンジョイレベルのスポーツシーンでも、より短時間の集中したトレーニングで、それほどきつくなくても効果的に身体を強化することができたり、適切な運動量でトレーニングを切り上げて疲労感を残さないようにしたり、オーバートレーニングによる故障を防ぐこともできるかもしれません。また、一流選手と自分との体の使い方の違いを知ることで上達の早道を探るなど、スポーツの楽しみの質を高めるツールとしても有望です。2020年に向け、そうした進化型のhitoeを随時市場投入していく予定ですので、楽しみにしていてください。

― お二人のお話をうかがっていると、スポーツ以外の分野でも
hitoeを活用する道がありそうです。

塚田 その通り。一例を挙げれば、医療分野でのリハビリ支援があります。従来、リハビリではゆっくりとした弱い負荷の運動が行われてきましたが、近年の研究では、ある程度強い運動負荷をかけた方が回復が早いとされています。hitoe製ウェアを着てリハビリを行えば、その患者さんに適切な負荷のメニューを組めるわけです。あるいは、過酷な環境で働く人の健康のモニタリングも可能でしょう。夏場の暑い工事現場や熱の出る機械のある工場の中、長距離バスやトラックの運転では、従事者の体調不良が大きな事故につながりかねません。hitoeを着用して職務に就き、その健康状態を常時把握できれば、従事者が深刻な状態に陥る前に素早い対応を取ることで、まさかの事態を未然に防げるのです。

――hitoeがスポーツをはじめ、人間のさまざまな活動をサポートしてくれる日が、すぐそこまでやってきているのかもしれませんね。

Number誌7/28 発売号より抄録

text by Sangyo Kawasaki
photographs by Keiji Ishikawa