Koji Uehara Meets Advanced Technology  

 人間の脳の働きが、スポーツのパフォーマンスといかに関わりあっているかを研究する機関として、NTTは今年1月、『スポーツ脳科学プロジェクト』を発足させた。そのプロジェクトマネージャー、柏野牧夫が、とりわけ興味を持っているテーマがある。
「上原浩治はなぜ打たれないのか」だ。
 メジャーリーグでも屈指のセットアッパー。レッドソックスに所属していた2013年シーズンには、ワールドシリーズ制覇の立役者の一人となっている上原だが、球速は平均140キロ台しかなく、持ち球は2本柱となるフォーシーム系ストレートとスプリット、そして時折混ぜるカットボールの3種類のみ。にもかかわらず、彼が米球界においてトップクラスの奪三振率を誇っているのはなぜなのか?
 柏野はその謎を解く糸口となるであろう自身の仮説を投げかけるべく、17年シーズン開幕に向け、東京都内で自主トレを行なっていた上原のもとを訪ねた。
 まず二人の話題に上ったのは、上原のピッチングの代名詞とも言えるストレートの「キレ」についてだ。
 これまで、ボールのキレの正体は「初速と終速の差の小ささ」や、「回転数の多さ」などに起因するのではという憶測がなされてきた。事実、米球場での計測によれば、上原のストレートはメジャーの一線級投手に比べて球速で劣るが逆に回転数は多く、ボールの軌道の落下幅が小さい、つまりホップする度合いが大きいという結果が出ている。
 だがメジャーの強打者ともなれば、対戦を重ねるにつれ、そうした特徴にもやがて慣れるはず。しかも、柏野らが米球場のそれと同じ計測機器を研究施設内のフィールドに設置し、プロ野球、大学野球を始めとした様々な投手のデータを計測した結果、投じられた球の速度や回転数と、バッターが感じるボールのキレは、単純に直結しないことが明らかになりつつあるのだという。
 そこで柏野は、上原のボールの打ちにくさの正体はボール自体の物理的特性、言い換えれば数字で容易に表わされるものではなく、むしろ「認知」の問題ではないかと考えた。
 実は、人間がものを見るということは、相当に複雑な情報処理なのである。眼球はある時点ではここ、次はあそこという具合に動きながら、限られた範囲の色や形、動きなどの情報をサンプリングする。このような断片的で不完全な情報を脳がまとめあげ、脳内に蓄えられた過去の情報も加味して、一貫した「見え方」を作り出している。
 バッターが投球を見極める場合も例外ではない。ボールの軌道がどう見えるかは、眼球がどう動き、どのような情報をサンプリングするか、それを脳がいかに解釈するかにかかっているのだ。
 もうひとつ重要なのは、このような情報処理には、ある程度の時間を要するということだ。例えば、プッシュボタンに手をかけて、光が灯ったら押すという単純な課題ですら0・2秒ほどかかる。ましてや、球種の判別、打つか否かの判断、適切なバットスイング動作という一連の作業を0・5秒にも満たない時間で遂行するのは、人間の処理速度の限界に近い。ピッチャーとバッターは、この限界をめぐってせめぎ合っているのである。
 こうした点を踏まえて上原の快投ぶりを紐解くと、二つの秘密が見えてくる。ひとつは、空間的なポイントだ。柏野が語る。
「上原さんの球種は実質上、ストレート(53%)とスプリット(42%)のみで、ストレートは高め中心、スプリットは低めに外す傾向が強く、ストライクゾーンの高低を最大限に使っています。そして投球時のリリースポイントは、上原さんより長身の岩隈久志投手(マリナーズ)やダルビッシュ有投手(レンジャーズ)より、20センチ近く高い。つまり上原さんは高い位置から投げて、極端に高低を投げ分けている。打者にとってみれば、視線をまず高い位置に引っ張られ、そこからストライクゾーンの高低いずれかへ先回りして眼球を動かすことを強いられる。ストレートとスプリットが来る割合はほぼ半々なので、どちらかにヤマを張るのは困難です。しかも、リリース直後の上原さんのストレートとスプリットの軌道は区別しづらい。予測的な眼球運動が外されると視覚情報が劣化し、錯覚も強くなります。この2球種をうまく組み合わせるからこそ、キレの感覚が増強されるのです」
 これには上原も、我が意を得たりと深く頷いた。
「僕の球って、最初から球種がわかっていれば、バッターに簡単に打たれてしまうはずです。だけどヤンキース時代の松井秀喜さんに言われたんですが、僕のストレートとスプリットは途中まで同じ軌道なので、どうしても的を絞りきれないと」

このプロジェクトは、もしかしたら
脳科学全体に革新を起こす契機に。

number_20170401_contents_01上原浩治(左) 1975年4月3日、大阪府生まれ。’99年読売ジャイアンツ入団。同年、新人王と沢村賞に。2009年ボルチモア・オリオールズで米球界デビュー。今季、米4球団目のシカゴ・カブスに移籍。188cm、88kg
柏野牧夫(右) NTTコミュニケーション科学基礎研究所上席特別研究員、『スポーツ脳科学プロジェクト』プロジェクトマネージャー。博士(心理学)

 そしてもうひとつは、時間的なポイントである。柏野が語る。
「打者が投球の軌道の観察に使える時間は、おそらくリリース後0・05秒から、最大でも0・2秒程度。となると軌道予測に重要な役割を果たすと考えられるのが、ピッチャーの投球フォームです。投球動作の中で球種が判別できる瞬間が遅ければ遅いほど、打者に与えられる猶予はなくなります。球速が140キロから150キロに変わったところで、時間的にはたかだか0・03秒ほどの違いでしかないけれど、投球動作の中で球種が判別できる瞬間は、ピッチャーによってコンマ何秒レベルの幅で変わりうる。その瞬間を遅らせることができれば、球速を上げるよりはるかに効果が大きいわけです。上原さんの場合、ストレートとスプリットの腕の振りが極めて似ていて、打者は見分けがつかないのでしょう」
 上原は、まるで占い師に自らの過去を言い当てられたかのように、目を見開いた。
「確かに、ストレートとスプリットでいかに腕の振りを同じにできるかについては、ずっと突き詰めてきたことです」
 さらに柏野によれば、上原の投球フォームのテンポが速いことも見逃せない。
「打者に時間的余裕を与えないし、他の投手とリズムが違うので、タイミングを取りづらいのかもしれません。また、これは詳細に計測しないと断言できないのですが、上原さんのフォームの中に速い動きの身体的部位があちこちにあり、打者の注意が無意識に分散されている可能性も考えられます」
 ただ上原によれば、打者を討ち取るため、自覚的に作り上げたフォームではないのだとか。
「高校時代は外野手だったから、テイクバックの小さな、テンポの速い投げ方が体に染みついてるだけなんですよ。あれは僕にとって、自然な体の使い方なだけで(笑)」
 別の角度からの視点として、野球評論家・里崎智也の意見を付け加えておきたい。里崎は06年のWBCで上原とバッテリーを組み、セ・パ交流戦では打者として上原と対戦した経験もある。
「僕が現役時代に受けた中で最高の投手は誰かといえば、上原さんです。とにかくコントロールが抜群。失投がないから、こちらが考えた組み立て通りの攻めができる」
 コントロール以外の要素で、上原が打たれない理由として里崎が考えるのは、タイミングの取りづらさだ。
「僕が打者の立場で上原さんと対戦して厄介だったのは、投球フォームの中で胸が見えない、つまり体が開かないこと。バッターからすれば、上原さんの上体に隠れてなかなかボールが見えず、フォームの終盤ぎりぎりまできて、いきなりボールが飛び出してくるような感覚なので、どうしても振り遅れてしまうんです。ただもちろんそれだけではダメで、ボールに力があることが大前提なんですが」
 フィールド上で捕手として、打者として上原と対峙してきた里崎の実感は、図らずも柏野の仮説を裏付ける形になった。
 今回、柏野と会った際の上原の状態は、自主トレ期間中ということもあり、シーズン中を100とすれば、30%程度の仕上がりだという。そのため参考程度の計測しかできなかったが、もしシーズン中、しかも実戦に近い状態で、フル装備の機器を用いてデータを取れれば、上原のピッチングの神髄にかなり肉薄することができる。
「それ、できたらいいですね」
 と、上原は興味津々だ。
「でも遅すぎましたよ。僕、もうそろそろ引退ですから(笑)。20年前にこういうことやってほしかったなあ」
 確かに、彼の現役生活中、柏野たちの研究の成果が具体的にフィードバックされることはないかもしれない。しかし、上原ら一流現役選手たちのデータが蓄積、解析されれば、次代を担う野球選手の上達を助けるヒントの宝庫になるかもしれないのだ。
 それだけではない。柏野はもっと大きなスケールの手応えを感じているのだという。
「スポーツという、高度に複雑化された状況の中で人の脳の働きを探る我々のこのプロジェクトは、もしかしたら脳科学全体に革新を起こす契機になりそうな気がします。なにしろ毎日が、従来の常識を覆す新しい発見の連続なんですから」
 上原が打たれない理由の解明によって、脳科学という学問の教科書が書き換えられる――何とも痛快な話ではないか。

[最先端技術が開くスポーツの未来]

NTTスポーツ脳科学プロジェクトの冒険

NTTは基礎研究の一環として、人間の脳について研究している。 この脳科学研究でスポーツと人間の未来が変わるかもしれない。

number_20170401_contents_02 (写真左)スポーツ脳科学プロジェクトの研究風景。野球場の内野グラウンドほどの広さに敷かれた人工芝やマウンドで計測が行われる(写真上)投手と打者の対戦を瞬時に計測し、モニターで確認できる(写真中央)被験者の体に付けられたセンサーで、腕の振りや、全身のひねりなどを計測(写真下)視覚からの情報にどう身体が反応するかを計測する機器も

  Visiting The Sports Brain Science  

 NTTは前身の電電公社時代から、直近のビジネスの探求だけでなく、将来を見据えた様々なテーマの基礎研究にも注力してきた。その成果が数十年を経て、例えば携帯電話や光ファイバー通信といった形で、我々の生活に役立っているのである。
 こうした研究活動の一環として今年1月、NTTは人間の感覚や体の操作が端的な形で現れるスポーツを対象に、脳科学の観点からアスリートへアプローチしていこうという『スポーツ脳科学プロジェクト』を発足させた。
 スポーツ科学として一般に知られているのは、運動生理学やバイオメカニクスだが、これはいわゆる心・技・体の「体」を対象としたもの。しかしスポーツ脳科学プロジェクトが光を当てようとしている領域は「心・技」の部分。「優れたアスリートは、五感を通して入ってくる情報を瞬時に、無意識的に処理し、それを肉体的な動きに転換する能力に長けている」との仮説を立証すべく、情報通信技術をフル活用し、より競技に即した環境下での研究を行なっている。
 その対象種目として同プロジェクトがまず白羽の矢を立てたのが、野球・ソフトボールだ。サッカー、バスケット、格闘技のように選手が常に入り乱れることがなく、ピッチャーとバッターに限れば毎回一定の場所、距離でプレーが行われる上、バッターはコンマ何秒のうちに高度な情報処理と運動出力を行い、ピッチャーとの1対1の勝負の結果が明確に表れる競技特性が、データの収集や解析に適しているからである。
 現在、被験者となっているのは、プロ、社会人野球の選手やOB、ジュニア選手、東京六大学の東大、慶大の野球部員らで、解析の結果、徐々に一定の法則性が掴めつつあるという。データの蓄積が進めば、投球の「キレ」とは何なのか、一流打者をして「消えた」と言わしめる変化球の正体とは、優れたバッターは自身への投球をどのように追っているのか、大舞台に強い選手はどんな心の動きをしているのかといったことが、科学的に解明されるかもしれない。さらにはこうした研究成果を元に、育成年代の選手の資質に応じて、各人が目標にすべき一流プレーヤーのタイプを設定し、そのレベルに到達するための効果的なトレーニング法を助言できる日もやってきそうだ。
 そして、同プロジェクトの研究成果がフィードバックされる範囲は、スポーツに留まらない。ますます社会が高齢化する中、老いてなお身体を意のままに操る上での真理に到達できる可能性をも秘めている。
 スポーツと脳との関係の解明は、いつの日か、豊かな人生を送る上での道標にもなり得るのだ。

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【Number 2017年4月号からの転載】

Photograph=Hideki Sugiyama,Kiichi Matsumoto