テクノロジーが進歩し、医療・健康分野においても日々新たなアプローチが生まれている。IoT技術を活用したライフログデータの収集や、AI技術を用いたゲノム情報等の解析がその代表例だ。

IBM社が開発している人工知能「ワトソン」をゲノム医療における診断支援に導入し、がん患者のゲノムを解析し、適切な診断結果を出した例もある。

 ビッグデータを医療に効果的に活用していくことが今後いっそう重要になっていくと考えられるが、未だデータ化されていない情報や、未だ原因のわからない病気も存在する。

 可視化されてこなかった情報のデータ化とビッグデータ解析、双方が進歩することでどのような未来が実現するのか――ドコモで研究開発に取組むエンジニアに話を聞いた。

妊婦の健康課題を解決するために

厚生労働省は、女性の健康課題を社会全体で総合的に支援することを発表しており、さまざまな活動を実施している。

 女性の抱える健康課題の中でも、解決が難航しているのが妊婦の健康課題だ。国内だけでも毎年、約100万人の妊婦が存在し、そのうちの約20%にあたる妊婦が妊娠高血圧症候群や妊娠糖尿病、早産など何らかの疾患にかかっているという。

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 「妊娠中に疾患にかかる妊婦が多いのですが、その原因は実はよくわかっていません。新しいデータをとることでメカニズムを明らかにできるのではないか、メカニズムを明らかにすることで発症率を少しでも抑えることができれば、そう考えたのが研究の始まりでした」

 と、妊婦の疾患の発症メカニズムの解明や早期発見・予防法の確立に向けた研究開発に取組む越智は語る。

 「ドコモは、通信事業だけではなく、医療・健康領域における社会的課題の解決をめざす活動も行っています。その中でも、次世代を担うこれから産まれる赤ちゃんと、そのお母さんの健康課題の解決が最重要と考えました。今回の研究では、ドコモグループが取り扱っているさまざまな医療・健康機器や、お客さまの健康情報を一元管理しているプラットフォームを活用できないか、と考えていました」

遺伝的な要因と環境的な要因の2つを明らかにする

 ドコモは、2014年11月から東北大学 東北メディカル・メガバンク機構(以下、ToMMo)と共同研究を開始。遺伝的な要因と環境的な要因の双方が複雑に関係していることに着目し、ゲノム情報などの遺伝的要因、血中や尿にあるタンパク質や代謝産物などの体内物質や、日常の血圧や体温などのバイタルデータ、さらには食事や活動量などの生活情報からわかる環境的要因を組み合わせて情報解析を行うために「マタニティログ調査」と呼ぶ調査研究を開始した。

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 「妊婦の疾患の大半は、遺伝的な要因と環境的な要因の2つが関係します。ToMMoはゲノム情報や体内物質等の取扱いに長けており、遺伝的な要因はToMMoの協力を得て双方で情報解析を進めています。ドコモは得意としているライフログの収集を担当し、ToMMoの協力も得ながら環境的な要因の情報解析にも取組んでいます」

 従来、妊婦の生活情報はアンケートなどを通じて集められていた。しかし、この方法では妊婦の記憶が不正確で回答に誤りが含まれるほか、情報は毎日取得できるわけではなく、せいぜい半年に一度しか取得できない。疾患の原因を明らかにする上で、十分な情報が得られていないことが研究課題であった。

 「妊婦の環境的要因を明らかにするために、ドコモ・ヘルスケアが手掛けるリストバンド型活動量計や、スマートフォン連携機能を備える活動量計、血圧計、体組成計、体温計などを利用して、血圧や活動量、体重や体温など妊婦に日常のデータを継続的に測定してもらいました。測定したデータを、ドコモ・ヘルスケアの健康管理プラットフォーム「WM(わたしムーヴ)」に集約。専用のアプリも開発し、つわりや痛み、ハリ、胎動などの状況も記録していき、採血・採尿も行いながら妊娠初期から産後1か月の期間に身体がどう変化して病気に至るのかを調査しました」

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ゲノム情報のみの解析やタンパク質のみの解析等は行われていたが、マタニティログのように網羅的に、かつ継続して情報解析することは前例がない。ToMMoが強みとするゲノム等情報解析技術とドコモが強みとするライフログ収集・解析技術。双方を掛け合わせることが、この研究のオリジナリティだ。

 「血液から得られるデータの解析といっても、ゲノムや、そこから生成されるRNA(リボ核酸)、代謝産物、タンパク質など、複数のレイヤーがあります。マルチオミックス解析と呼ばれる、多様なレイヤーで得られるデータを組み合わせて解析を行っています。研究を続けてきた結果、目標としていた300名の妊婦からデータを集めることを達成。長期間に渡って、ライフログで600万点、血液などの検体も1万点ほど蓄積されます。これは過去にも例が無い世界最大規模のデータだと考えています。集めたデータは、現在解析を行っています」

イラスト制作:橋本さと子

画面内イラスト制作:橋本さと子


妊婦のモチベーション維持・向上が成功の鍵

 同研究には課題も多かった。特に課題だったのが、行動のデータ化と複雑なデータの解析だ。

 「今回の研究で必要としていたのは、まだデータ化されていない情報です。血液等の検体もそうですが、妊婦のライフログも簡単に取得できるものではありません。朝晩に血圧を測ってもらう、活動量計を使ってもらうなど、普段とは異なる行動を毎日お願いすることになります。そのため、妊婦のモチベーション維持・向上が必要でした。どうすれば妊婦さんがデータを登録しやすいかを考え、毎日使ってもらえるように工夫をこらしました」

 同研究のために開発したアプリでは、1日に何項目か登録するとポイントがもらえる機能や妊婦の状態に合わせて赤ちゃんの様子や気をつけることなどを送るメッセージ機能などを搭載。それらの評判は良く、妊婦にアプリの利用を促し、全体的に約80%~90%の登録率を達成した。もう一点の課題は、データの解析が非常に複雑になることだ。

 「マタニティログでは、マルチオミックス解析をしており、ゲノムだけではなく血液中のRNA(リボ核酸)、代謝産物やタンパク質、尿内の代謝産物やタンパク質、口腔内の細菌なども解析の対象となります。それぞれの解析のために必要な知識が膨大で、とてもドコモだけではできない。そこでToMMoと連携して研究を行っているのですが、広範囲な最先端の知見を常に調査しながらやっていくのは、なかなか大変です」

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医学的なエビデンスに基づいたソリューション開発に向けて

 2014年11月から実施してきた同研究は、検体も集まり解析のフェーズに入った。越智は、2020年には、何らかの成果が出ているはず、とコメントする。

 「データは集めることができました。この後は、データ解析の成果を出すとともに、そのサービス化を考えることになります。それは、B2Bとして医療機関への診断支援かもしれませんし、B2Cとして妊婦への疾患予防サービスや保険の提供かも知れません。診断デバイスや薬の開発にもつながります。可能性はさまざまですが、「こういう食事や運動をすると早産リスクが下がる」など、医学的なエビデンスを作りつつサービス化できたらと考えています」

 重要なのは、医学的なエビデンスに基づいて具体的なソリューションを生み出すことだと越智は語る。遺伝子解析サービスなど論文に基づいたソリューションはすでに生まれている。ただ、自身の遺伝子の解析結果を見た人が、自らの生活を改善し、健康増進に役立つかというと、必ずしもそうとは言えない。「やるからには、健康増進や疾患予防につながらないと意味がない」――越智はそう考えている。

 今回の研究では、データ化されてこなかった情報をデータ化し、さまざまなレイヤーで一気通貫して解析することが重要な役割を担っている。将来的に、さらにIoT技術が進歩してセンシング可能な情報が増えると、解析の精度はどうなるのだろう。

 「確かにデータ取得コストが下がり、取得頻度が増えれば、できることも増えると思います。ただその点については、技術だけで完結する話ではないので難しいですね。個人情報や医療情報を含めた法律的な話、診断基準や治療などの医学的な話、倫理的な話、さまざまな点から議論が必要です。国内外の技術や先行事例をウォッチしながら、我々もサービス戦略を考え、各方面へロビー活動などを行っていくことが必要になると思います」

 妊婦の疾患発症メカニズムの解明や早期発見・予防法の確立のためにスタートしたマタニティログ調査は、今後どのように展開していくのだろうか。

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「あくまで妊婦は最初のターゲットです。妊婦は研究に参加する開始と終わりのタイミングが明確で期間も10か月程度と短く、病気が発症する前からデータを取得する「前向きコホート」がやりやすかった。今回の知見を踏まえ、将来は妊婦に限らず発症するさまざまな慢性疾患、生活習慣病等にターゲットを広げていきたいと思います」

 妊婦は健康に関する情報を記録することに対するモチベーションが高い。今後、他の慢性疾患の原因を明らかにしていくためには、より多くの参加者からデータを取得する方法が必要で、モチベーションを高めるための仕組みや、参加者が無意識に、または低い負担でデータを取得するための方法を編み出すことが求められる。

 AI技術の進歩により、ビッグデータ解析による診断支援も可能になった。この先、データ化される対象が増加すれば、さらに多くの疾患が予防・治療へと向かうだろう。世界から一人でも疾患にかかる人を減らすために、ドコモのライフログ収集解析技術が重要な役割を担う。

写真=植村忠透 Photos : Tadayuki Uemura
文=モリジュンヤ Text : Junya Mori